南紀熊野ジオパークを学ぶ
文化歴史
南紀熊野は、急峻な山々を越える峠道と、山々の間を縫う川の道、津々浦々を結ぶ海の道が、多くの人々の往来と物資の輸送路となり、各地との結びつきによって文化が育まれてきました。
山間部では、深い森や滝、巨石、大木など、自然物に対する信仰が発展してきました。その代表は、国の史跡・名勝であり、熊野那智大社のご神体となっている那智大滝です。このような自然への畏怖の念が土壌となり、神仏習合にもとづく熊野信仰が生まれ、平安時代には現世利益を求める熊野詣が盛んに行われるようになりました。熊野詣では、早い時期から体の不自由な人や女性の受け入れが行われていたこともあり、上皇から庶民まで多くの人々が、この地域へ訪れたことから、「蟻の熊野詣」と呼ばれています。熊野詣の参詣道「熊野古道」は、2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。
急峻な山々に囲まれた北山川流域では、古くから豊かな林産資源と河川を活用した暮らしが、地域の経済を支えてきました。切り出された木材は、木馬(きんま)やシュラ(木材をすべり落とす施設)で山から川へと下ろされ、筏を組み河口の新宮市へと運ばれました。そのような歴史もあり、廃藩置県の際に川を通して文化や人の結びつきの強い和歌山県に残る選択が行われ、現在、全国で唯一の飛び地の村「北山村」が存在することになりました。
また、熊野川流域には、古くから旅客や物流を担う川舟が航行しており、熊野詣に訪れた平安時代の皇族や貴族にも利用されるなど、川の参詣道としても利用されていました。江戸時代には大型の団平船が登場し、近代に入ってからはプロペラ船やジェット船などが就航し、輸送力の向上が進められてきました。熊野川や北山川は川の道として、山間部の人々と河口部の人々を繋ぐ道であったのです。
同様に、日置川、古座川、太田川なども、河口部は物資の集散地として街が発展し、海と山を繋ぐ中継点となっていました。
江戸時代には、富田(白浜)や新宮に「廻船」(樽廻船、菱垣廻船、新宮廻船)があり、米、酒、しょうゆ、炭、木材、薬、灯油、着物、武具など様々な物資が、下りもの・上りものとして江戸や大阪との間で取引がされていました。地域内では「いさば船」が近距離の物資輸送を担い、この地域の沿岸は遠距離・近距離の海上交通の大動脈となっていました。
一方で、潮岬の東方の熊野灘は海流や波が強く、特に黒潮の流れに逆らう西向きの航行時には危険を伴う、海上交通の難所でもありました。そのため、古くから串本町の重畳山、太地町の燈明崎や梶取崎、那智勝浦町の那智の滝、新宮市の神倉山などは舵を取る目印として、安全に航行するために利用されていました。
この海域が難所であることは明治時代になっても変わらず、この海域ではイギリスのノルマントン号やトルコのエルトゥールル号などの遭難事故が起こっています。そのため、安全確保のために日本で最初の洋式石造り灯台が樫野埼に、最初の洋式木造灯台が潮岬に設置されました。
明治時代以降も現在に至るまで、紀伊半島沖は国内外の船の重要な交通路となっており、現在でも、潮岬から沖を見渡すと多数の船舶が航行しています。
この地の山野・海浜の美しい景観は、後藤新平や小川琢治などの著名人に感動を与え、国民の保養地として熊野地域を活用しようという吉野熊野国立公園の指定(1936年2月1日)に繋がるなど、自然を生かす文化の土壌が育まれています。
また、串本町古座から新宮市にかけての沿岸部では、古式捕鯨が盛んに行われてきました。特に、太地町は、近代においても捕鯨の基地としても栄えてきた歴史があり、日本の捕鯨文化を受けついでいます。